私はこう思っている。
人は、誰でも英雄として生き死ねる。
世間では一般に、こう言われている。30歳過ぎたらこうだ。40歳過ぎたらこうだ。
50歳過ぎたら自分の顔に責任をもてとか、そして、私が一番いやな考えは若い時にどんな事をしたかで、
その後の人生が決まって、その自分がある。
つまり、今までの過程により人生が予測されることである。
確かにその通りかも知れない。そしてある程度の年齢になったらそれなりの人になる。
そして、その後の人生はもう決まってしまうなどを言うことである。
私は、この考えは好きになれない。
なぜなら、ある程度の年齢になったらそれなりの人で止まってしまうからである。
私は、いつでもアクテイブに行動する人が好きだ。
なぜなら、現在この瞬間が大切であり、それなりの人になっても何も行動しないなら退屈なだけである。
私は、人はいつでも英雄のように生きる事ができると信じている。
私の信念はこうである。
[人は誰でも英雄として生き死ねる]
もし、『貴方が49歳と364日までは落ちこぼれの人生だとしても49歳と365日の日に、
愛する人を救わなければならないとし、自分の人生もしくは今までの人生の全てを賭けて
行動したら貴方は英雄として生きた』ことになる。
私がこの信念に至ったのは、ある映画によるものである。
その映画は、『ジャック・サマースビー』
MovieWalkaer 作品
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この映画は、はっきり言って秀作でもなく一般的に感動的でもなく、
そして、ジャンルはまたは思想は何かと問われたらすぐには答えがだせない。
感動的な恋愛ものでもなく、家族愛でもなくましてや冒険でもなく、はたしてなんだろう。
とにかく退屈な感じの映画かもしれない。
この映画の主役は男なのか女なのかも意見が分かれる作品であるが、
最後のクライマックスまでは男が主役と思うが、主役の妻は赤の他人で恋感情なんて何もない。
つまり、ある事を理解または感じる事ができなかったらとても退屈な映画である。
では、この映画は何を言いたいのかも最後の方になってなんとなく分かったものである。
そして、この映画のクライマックスは最後の15分くらいの場面である。
最後の死刑台の場面に全てが集約されている。
最後の絞首刑の場面である。
死刑台の上で男が不安と孤独と死への恐怖で耐えられなくてなっている。
すでに、落ち着きを失っている。
自分のした事は何だったんだ。
もし、ここで真実を証せば死刑は免れるかもしれない。
しかし、
それは、嫌だ。卑劣な自分で生き延びる事は出来無い。
最後の望みに賭けているのがわかる。
必死に妻を探しているのだ。
もし、ここで妻が来なかったら、自分のした事は全てが無意味となる。
それだけはない、ただ単に無実の罪を引き受けただけで死んで行くのである。
これでは、人間としての尊厳も何もない。ただ卑劣な自分で死んで行くだけである。
でも、妻は来た。
妻役のジュディ・フォスターが、群衆を掻き分け進みでて
「ジャック、私はここよ」と叫んだ。
絞首刑になる男が妻を見つけた。
そしてこの時、男の表情が何かをやり遂げた自信に満ちた表情になった。
ここで、この映画は「THE END」で終わりである。
見終わって、すぐには感動が無かった。
幕が下りて、少し経ってからであるが、大きな感動では無い。
しかし、私の心の中に、入り込んでいていつまでも時折、
あの死刑台の場面が浮かぶのである。
私は、この最後の場面の死刑台での男の表情にこの映画の全てがあると思っている。
この男は自分の結末の死において、自分は図りしれない偉大さな事をしたと感じたのだろう。
それは、自分は卑劣な男では無い。
自分は、【英雄として生き、英雄といて死んだ】と、至上の感激をしたことだろう。
ここで、普通に女性には、この事
『英雄として生き、英雄として死ぬ』ことを分かってもらえるだろうか。
なぜなら、勝手に無実の罪を背負って死刑と引き換えに自分は『英雄として死ぬ』ことに偉大さを
感じただけの自己満足なのだから。
しかし、妻は分かったのだ。
この男が『どう生き、死ぬかを自分に問いかけた事を』
そして、この男は『卑劣な自分で生きながらえるよりは、生命を賭けてでも英雄として生きたい』事を。
私は、ここでどんなに今までの人生が怠惰であり落ちこぼれで、
どうしよもない人生だとしても、いつでも
『
人は、誰でも英雄として生き、英雄として死ねる』と言うことが信念になりました。